2022年03月03日

スマホ依存症

東村です。

今回は依存症のお話しです。

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スマホを忘れた。

横浜駅の近くでクライアントと待ち合わせをしていた私は、スーツに着替えて準備万端の態勢を整えていた。ところが、家を出る直前になってスマホの電池残量が減っているのに気づき、急遽充電を始めた。そして、そのまま家を出てしまった。

乗車駅に着いた時は、時すでに遅し、自宅に引き返す時間はなかった。スマホSuicaで改札を通ることができなかった私は、久しぶりに現金で切符を買った。

ホームに立ってふと感じた。……スマホがないと手持ち無沙汰だ。いつもならスマホの画面を覗き込む時間なのに、目の前をゆっくりと逆方向へ発進する電車を眺めるくらいしかやることがない。

電車に乗り込むとさらに虚無感が増した。いい歳をした男性にとって、見つめるところは真正面しかないのだ。

私の人生ではスマホなどない時間の方がはるかに長かった。スマホなどなくても何ら不自由はしなかったはずだ。なのに、なぜ今、スマホがないだけで手持ち無沙汰になり、こんな虚無感に苛まれなければならないのだ?

そうだ。あの頃は夢想トリップしていた。車窓を流れる風景を眺めながらいろんなことを夢想した。地下鉄だから目の前には自分の立つ姿しか見えないが、夢想に風景はさほど関係ない。あの頃に戻ろう。

ところが、である。何を夢想すれば良いのか、がわからない。スマホがあれば、夢想するネタを提供してくれるのに、スマホがないと何を夢想すれば良いかさえ思いつかないのだ。もちろん、窓鏡に映るおのれの姿も真正面上方にある車内広告も目には入るのだが、それらからは何も夢想できない、いや、正確に言うと、夢想しようという意欲が沸かない。

思えば、私はいつも「学ぶ」ことと「考える」ことの両輪の大切さを訴え続けてきた。「学ぶ」だけでは「受け売り」に、「考える」だけでは「ひとりよがり」になってしまうだけ。さまざまな知見獲得のためにはそのバランスがすこぶる重要だ、と。なのに、自分自身がこんなに時間を持て余しているのに、いざ何かを考えようとしても夢想に入り込めないのだ。

スマホを手にしたことで、瞬時にいろいろなことを「学ぶ」ことができるようになった。それはそれで素晴らしいことだ。しかし、その一方で「考える」能力が衰えてきてしまったのかもしれない。いや、もちろんいろんなことを考える時間は多いのだが、その前提に、外部情報、外因性のネタの存在感が大きくなってきているのかもしれない。しかもその刺激は直近かつ強力なものでなければならなくなっているのかもしれない。それは、もはや「考える」が「学ぶ」に隷属した状態とも言える。「学んで考える」ことはできるが、「考えて学ぶ」ことができなくなっているような気がするのだ。

スマホにより「学ぶ」機会が増えたことの弊害なのだろうか?

スティーブ・ジョブズも傾倒した座禅では「無になれ!」と言うらしい。しかし、日頃からそんな鍛錬などしていない私には「無」の意味さえもよくわからないし、「無」の意味を考えようとしても、あの「無」という漢字は何が起源となっているのだろう? などとわけのわからない方向に思考が進んでしまうのだ。

そんなこんなことを考えているうちに、目的の駅に着いた。8駅しかないのが救いだった。

スマホ依存症。その怖さは、健康を害する、人とのコミュニケーションを希薄化するといった損害よりも、「考える」力を毀損する損害の方がはるかに大きいのではないかと思った。

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posted by Wiz.dog Club at 11:30| 思うこと